コミュ力は必須だ
例外もある
もしも1人で全てのことをこなせるというのであれば全く必要ない。
それ以外であれば、必須であり、コミュ力はあればあるほどいい。
なぜ必須か
1人で全てのことをこなせないのであれば、誰かに何かをやってもらう必要がある。
アイデアはあるとしても、それが自分の力だけでは達成できないという状況がたくさんある。
そのときにコミュ力が試されることとなる。
どれだけ正しいことを主張していても、それが相手に聞いてもらえない、話しても伝わらないのでは意味がない。そして相手がそれを承認しなければやってもらうこともできない。
結果として、アイデアが何もない人と全く同じ成果になってしまう。
簡単なチェックポイント
コミュ力は目には見えない。
しかし、その高さを測る指標のようなものならばある。
物事を否定的に見る
論理的な思考を持つと、議論を常に疑うという観点を必要とする場合が多い。
話の流れの妥当さや、データの解釈への検討などをする場合、楽観的で都合の良いことばかりを見ていないかを意識する場面が多いと思う。それ自体は良いことであり必須のスキルである。
そうしているうちに、人間の言うこと自体を否定的に疑ってかかってしまうようになる。
これはまずい。
自分の言うことを否定されて嬉しい人などいない。もちろん間違っていればそれを諭す必要はあれど、それをされる瞬間は誰にとっても嬉しいと感じるところではない。
相手はロボットではなく人間であることを常に意識しなければならない。
「でも」
「そうじゃなくて」
などを接頭辞に会話をしている場合は、相手は否定されているという気持ちを持つことだろう。
議論を疑って掛かるのと、人を疑って掛かるのは違うということである。
結果的に上手い方向へ事が運べばいいのであって、道中は相手と仲良くなるという寄り道をしてもいいはずだ。
助けたくなる
なぜか助けてあげたくなる人がいる。
単純に良い人だからということもあれば、付いて行けば上手く行く気がするからという場合もある。中には余りに頼りないから、支えてあげたいという場合もある。いずれにしてもその人に良い印象を持っているのは間違いない。
助けてあげたくなるような人というのは総じてコミュニケーション力が高い。
良い人だろうと、カリスマ的リーダーだろうと、頼りない存在だろうと、表面的に現れる属性は違えど、助けたくなる人の根底にはコミュニケーションの力が必ず潜んでいるのである。
逆に、いざとなったときに助けてもらえるような人間になることが大事である。
目に見えないコミュニケーション力を測るチャンスでもある。
ただのお人好しや、正論だけで統率する人、単に力不足な人では周りに助けてはもらえない。