親切をする
電車で足腰の弱い人に席を譲る。
恥ずかしいけど、実行できたら何か気分が明るくなりますよね。
歩道では自分が車道側を歩く。
車に近い側=危険ということで、他人に安全側を譲ることになります。
歩行者がいたら自動車を一時停止する。
これはルールでもありますが、とりあえず挙げておきます。
とにかく「する」から美しい
これらの親切は能動的に実行するから美しいのだと思います。
あるいはそうでなければ親切と呼ばないかもしれません。
んで、今回言いたいのは親切をしましょうということではありません。
いや、親切をするのはとても良いことですが、主張したいのはそこではないということです。
親切にされるのを当たり前と思うな
横断歩道を渡るとき
右・左・右を見ますよね。
そこまで丁寧じゃないにしても普通は自分の身を守るために少し確認くらいするはずです。
もちろん横断歩道は歩行者優先です。いきなり渡って事故をしたら悪いのは自動車側です。そうだとしても、やはり自分の身を自分で守るはずです。
電車で席を譲ってもらうのは当たり前か?
まず優先されるのが歩行者だとしても、歩行者はまず自分の身を自分で守ることを考えるはずです。では電車で席を譲ってもらうのは当然ですか。満員電車では誰かが立たなければなりません。その誰かが自分である覚悟も少しくらいあってはいいのではないでしょうか。
そんなとき、親切をする人がいれば、すぐに席を譲ってくれるはずです。
しかし、譲ってもらうのが当たり前だと言わんばかりに、とても「元気そうに」席を譲れと主張する年配の方いませんか?つらそうなら譲りますよ。けど元気そうでしょ。至っては乗車口に列を作って並んでいる中、平気で順番を抜かして真っ先に席に座ろうとする人。それもうただのルール違反です。
お客様は神様だ
これは店員の言うセリフだから素晴らしいのです。これを客が店員に向かって言うのはなんだか違いませんか。店員だって人間です。親切にするのは気持ちいいけど強要されるのは気分が悪いに決まっています。
親切は「する」から美しいんだと思います。